飛行老人の飛行機話

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カテゴリ: ハチロク

 間を省略、最後はコンバットピッチロール。
こちらも今では反対側へロールするが、浜松では観客側は逆光になってしまう。
しかしこの時は正解だったと思う、お腹の赤がしっかり撮れたからね。
 今のT4ブルーの物足りなさはこの赤のアクセントが無いからと私は思う。

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 浜松ハチロクブルーの続き、離陸後の4機ダイアモンド編隊での360度旋回。
最近ではファンブレークという科目で観客席側でも編隊の背中を見る事が出来るが、当時は観客席側からはお腹ばっかりしか見えなかった。
 浜松は離陸を撮る場所が順光側でそこで待っていたら丁度旋回の中心になった。レンズは多分200mm。

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 1881年1月7日は浜松へ。
冬型が強くて晴天を期待していたのだが、かなり雲が流れていた、残念ながら離陸は丁度曇ってしまった。

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 4番機は滑走開始時はフィンガーチップの右端からエアボーン後ダイアモンドの最後部に移動する。
今のBIは何故か編隊離陸をしないが昔の画像を見ると何か間の抜けた感が否めないね。

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 1976年12月7日に浜松へ撮影に出かけた際に基地内にBIのF-86Fが通常のオレンジ以外にタンクを装着した姿を発見したが、飛びそうになかったのでダメ元で
基地広報班に連絡を入れると以外にもOKの返事を貰い、列線を撮影出来た。
 当時は今と違って規制も緩かったのだろうが担当者に感謝するのみである。この時初めて聞いたのだが那覇の航空祭に出かける海越えの為の増加タンクだった。
 従ってチャンスは那覇航空祭の前後、一年間に2回だけという事になる。当時はシフト勤務のサラリーマン、この後一度だけ新田原で待ち伏せして撮っただけだった。

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 今日は3月6日、306飛行隊を期待していた人は残念でした。(笑)
という事で表題どおり第3飛行隊と第6飛行隊のハチロクです。
 いまやハチロクを知る人は50歳以上になってしまい、最後の第一線舞台から退役してからもう35年が経っています。
 まずは第3飛行隊、私の高校の同級生が最初の部隊配属になったのがこの部隊でした。当時は三沢がまだ共同使用になっていなくて海自八戸基地に間借り、三沢に移動したのは1971年12月でした。
 部隊の尾翼のマークは赤の太い2本線、三沢に移動した後第8飛行隊と第3航空団が編成された後は色違いの青森県をモチーフにしたものに変更されました。
 1969年3月に入間基地に来た3スコのハチロク、懐かしいタワーとハンガー。

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 1976年10月の航空祭では9機編隊のフライト、隊長が機付きにデブリーフィング。
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 第6飛行隊は最後のハチロク飛行隊で1981年2月にF-1に機種更新、最後の頃は機体老朽化に伴いG制限のかかった機体が増え、機首に赤い線を捲いていました。
 1979年10月、G制限の885。

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 同じくG制限の無い962。

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