飛行老人の飛行機話

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カテゴリ: 昔の写真、羽田

 今はBIZ JETもかなり増えたが当時は規制がかかっていて、何故かソニーだけ社有機の運航が認められていた。人目を忍んでいたのか、J社のハンガーに入れていて飛ぶ時だけしか姿を見せなかった。

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 日付けははっきりしないが1990年ごろの羽田は滑走路が2本だった。北風の時は着陸は33Rだけだったが、離陸は33R、04を使用していた。
 33Rの離陸は右へ旋回するので京浜島からは良い感じだったが、光線が良いのはは朝のうちだけだった。 

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 成田空港開港後は訳の分からない理由で唯一羽田に残った中華航空、当時は最長路線だった。

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 1986年11月10日の羽田空港、この日はフィリピンの大統領が来日した。調べればわかると思うが誰かは思い出せない。マルコス時代は婦人専用のYSー11も持っていたが、専用機は持っていない。
 普通大統領が外遊する際は少なくともチャーター機を使うが、フィリピンの場合は成田への定期便を羽田へ着陸させるという荒業を使ってマニアをガッカリさせた。

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 国賓待遇だったらしく陸自の儀仗隊も出動。

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 当時の陸自の輸送機部隊はKVー107プラス新鋭ピューマ。

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 海保のYS-11、JA8702は1971年11月に取得された。
1983年2月の羽田空港。

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1985年6月、大阪国際空港、北の外れ、新聞社格納庫前のスポット82。
通常は縦置きなのだがこの時はVIPでも迎えに来たのか、整列して出迎えている。

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JA8511、1981年10月3日、大阪の32Lを離陸、リフトオフ直前。

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JA8512、1984年2月16日、大阪を32Lを離陸、戦闘機と違ってギアはアップされていない、昇降計がやっとポジティブクライムになったぐらいか。この辺でギアが上がりかかってくれると良い絵になるんだが。

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JA8514、1975年8月2日、羽田のランウエイ22にアプローチ。導入当初はレジの下二桁が青字で機首に書いてあったが何時の間にかノーズギアドアに黒字で変更になった。新品でピッカピカ。

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JA8515、1975年9月、那覇空港。今のターミナルビルができる前海洋博に備えて那覇港側にターミナルビルが移設された。この便は海洋博に連れてきた祖父が乗って羽田へ帰るところ。私は居残って翌日嘉手納へ。

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JA8521、1984年2月16日、大阪の32Lにアプローチ、千里川堤防。

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JA8522、L1011のA社最終号機、1982年12月14日、千歳のランウエイ36Rにアプローチ。冬の北海道は太陽が低く南西方向に沈むので光線状態は良くない、雪の反射も昼頃に比べると弱くなっている。

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