飛行老人の飛行機話

Yahooからの引越しに伴いタイトルを変更

カテゴリ: マルヨン

 1977年の4月、関西在住だった頃、帰省したついでに百里へ。207飛行隊は沖縄返還に伴い那覇へ移動したが、シスタースコードロンの206飛行隊は未だ元気に飛んでいた。
 サイレンサーの前には桜が咲いていた。

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 定番クノイチで離陸を。

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 E-5のアーミングエリアでドラッグシュート。複座のマルヨンはロケット射撃の標的、デルマーターゲットを曳いていた。最近はおいでおいでをしている姿を見ないね。

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 日にちが前後するが、引退興行全国ツアーの一環で1985年10月の三沢基地航空祭にも、2機のマルヨンが飛来して展示された。

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 1985年10月の新田原航空祭に2機のFー104Jが那覇から展示に飛来した。
年度末の解散を控えて全国さよならツアーの一環で2機飛来したと思われる。

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なお昨日の記事に誤りが有り訂正した。













 もう51年前になってしまった1971年3月の百里、青梅赤梅マルヨンが元気に飛んでいた。

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 離陸する赤梅の複座型、撮影場所はGCA付近。Fー2やFー15に比べるとかなり低い。

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 当時の消防隊はタワーとレスキューハンガーの間にあったようだ。

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 以前西独のマルヨンを特集したが、最近他のポジをスキャンしたのでその続き。
本来はミュンヘン西のレッフェルトを基地にしていたが訪れた1982年8月は滑走路工事でミュンヘン北のマンヒンに移動訓練に出かけていた。
 南北の滑走路をつなぐ誘導路が臨時エプロン。

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 ラストチャンスではなく誘導路の途中でピン差し。

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 一仕事を終えたパイロットが降りて来た、Gスーツが見当たらない。

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