飛行老人の飛行機話

Yahooからの引越しに伴いタイトルを変更

2009年11月

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 今日は航空自衛隊の輸送機、C-46です。

 正式名称はカーチス C-46D ”コマンド”ですが自衛隊機に愛称をという事で”天馬”という名称を与えられましたがパッとせず、そのうち相性そのものも使われなくなってしまいましたね。

 私とヨンロクの出会いは高校生の時の航空教室への参加で入間基地へ行った時ですが、その前に自宅上空をオレンジ色の帯を付けた銀地の大型機がガランゴロンと独特の音をさせて飛ぶ飛行機を見た記憶があります。

 最初の体験飛行は入間基地から30分ほどのロ-カル飛行でしたが、2回目は入間基地から美保基地まで航空教室参加での飛行でした。

 機内は薄暗く、座席も胴体内向かい合わせのとループシートでしたが、心地よいエンジン音にしばらく居眠りをしてしまった記憶があります。

 1060年代後半から1980年代には入間基地では木更津から移ってきた輸送航空団、総隊飛行隊、
飛行点検隊と四六がゴロゴロしていました。

 私も休日はせっせと横田通いでしたが、もっとヨンロクを撮っておけば良かったなーと悔やんでいます。

 一番派手な飛行点検隊から行きます。

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 今日の話題は再び水蒸気、日本の名機二式大艇の流れをくむ、PS-1です。

 PS-1は対潜哨戒機として開発されその離着水性能は世界最高水準を行くものでした。

 しかし対潜機材の性能が大幅に向上して海上に着水してソナーを下ろして捜索する必要もなくなり、

 退役してしまいました。

 派生形の水陸両用救難機のUS-1はその後US-2に発展していますがなかなか見る機会がありません。

 私の伊丹時代はまだPS-1の生産が続いており、6号機から最終の22号機まで新明和甲南工場で

 撮影する事ができました。

 武器輸出3原則に引っ掛かるとかで扱難型の輸出も出来ないとかで生産コストが下がりません。

 新政権ではこの辺も再検討してほしいものです。

 特に空中消火機として活躍してほしいものです。

 マーチンマースのカラーが出て来ましたので追加しておきます。

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 今日は朝食後、ネットを見ていたら福島へ中華航空のチャーター便があるのを思い出し、3度目の正直はあるかと思い急遽出かけました。

 結果は2度ある事は3度あるのことわざ通り、外れてしまいました。

 しかも出遅れた為、ベアドウの離陸にも間に合わずはるか彼方を飛んで行くのを見送る結果となってしまいました。

 しかし悪いことばかりは続かず、福島をベースにしているのとは違うダイアモンド ツインスター(JA666C)がローパス後着陸。

 また新機種のAW139(JA91NH)がタッチアンドゴーをしてくれたのでラッキーでした。

 しかしこんな中型ヘリを取材に使うのはちと贅沢なように思えるのですが。こちらも事業仕分けで料金の値下げで還元してほしいものですね。

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 昨日のL-188(N595KR)についてシリアル本からわかった事があるので報告します。

 所属はアメリカの NATIONAL CENTER OF ATMOSPHERIC RESEAR

 CHという大気観測機関でした。この組織は現在も存続していてC-130とGULF-Vを使用して

 います。

 製造番号は1130、最初の登録はN181H,次にN175PS(PSA),N595KR,   

 1994年の時点でN308Dでいたがその後は?

 今日の画像はつながりでPSAのN171PSです。

 1973年サンディゴで撮影、まだ旅客便で飛んでいたようです。

 2枚目は同じくサンディゴでのHOLIDAY AIRLINEです。これはエレクトラのプロトタイ

 プでN1881,N174PS,をへN974HAとなり1975年に末梢登録されています。

 3枚目はロングビーチで撮影したFIESTAIR(N301FA),当初はN5514,その後  

 N301FA,N5514にもどり1981年に抹消されています。

 先端をちょん切って整形していない幅広のプロペラは力で引っ張るアメリカ機の特徴を表していると思

 います。

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 今日はロッキード L188”エレクトラ”

 1980年前半、那覇をベースに気象観測機が飛んでいるとの話に那覇まで2回行って来ました。

 勿論那覇だけではなく、嘉手納へもしっかり行きました。

 N595KRのレジから調べたら下記のURLに1970年に横田で撮影された写真が出ていました。

 その時は角が無かったので単なる輸送業務だったのでしょう。

 ハリケーンハンターでも検索したのですが見つかりませんでした。

 塗装は上面白、赤い線の下は黄色に塗ってありました。

 当時の那覇はまだ米海軍の航空部隊が使用しtおり、海兵隊も岩国から移動訓練に来ていました。

 瀬長島はまだ弾薬庫で返還されておらず、道路は滑走路延長線の手前で金網のゲートで閉鎖されていました。
 
 またターミナルは現在の貨物ビルの北側、北エプロンへの曲がり角にありました。

 国内線の主力はB-727、DC-8が主力でした。

 
 http://www.airliners.net/photo/Untitled-(King-Resources/Lockheed-L-188C-Electra/0495007/L/

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