飛行老人の飛行機話

Yahooからの引越しに伴いタイトルを変更

2009年06月

イメージ 1

イメージ 2

 今日は207飛行隊です。

 207は青みがかった恋グレイと薄いグレイの迷彩塗装で尾翼の飛行隊マークにオーバースプレイをしていました。
 こちらは3機共に同じような塗り方でした。

 また各飛行隊から統裁官用に1機ずつのDJが参加していましたがこちらの塗装は各飛行隊共に若干の違いはあるもののほとんど同じでした。

 事前訓練の時期に那覇へ行ったら305のエフヨンが助っ人に来ていました。
現在この場所は2重フェンスになって撮れなくなってしまいました。

 戦競が終わって急遽築城で202の帰りを待っていたら先になはへ帰る207が降りて来ました。

 肝心の202は帰りの飛行機の時間に迫られ、駅へ着いたらあの独特の音を響かせたマルヨンがオーバーヘッド、泣くに泣けませんでした。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 今日は205飛行隊。

 205も晴天用と曇天用の2種類の迷彩が登場しました。
黒、グレイ共にインテークに訓練中の撃墜マーク?が記入されていました。

  話題が続かないので今日はおまけ画像を。

 この年は303飛行隊に自衛隊初めて?のシャークマウスが登場しましたが、飛んだのは1回だけだったようです。

 あまり派手すぎたようで競技会には消されていました。

 

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 今日は204飛行隊です。

 204は205と共に晴天用と曇天用の2種類の迷彩塗装で参加しました。
黒い方が晴天用、グレイが曇天用です。

 当時新田原は滑走路工事で204はこまつへ移動訓練に言ってました。
そのためどちらが先に塗ったのか判明していません。

 204は事前訓練でフェイカー用?に青い塗装も出現していましたが、1機だけ小松へ行ったら百里へお出かけで逃がした記憶があります。

イメージ 1

イメージ 2

 今日は203SQです。

 203はマニアから見ると一番さえない塗装でした。しかし整備員からすると塗っても競技会が終わるとまた塗装を落とす手間を考えると手抜きしたくなったんでしょうね。

 胴体のキャノピー辺りからエンジンカウリングの前までを薄いグレーでオーバースプレイしただけでした。

 3機共に同じような塗り方だったと記憶しています。

 隊長機には名前にちなんだ豹の絵が黒で右側キャノピー下に小さく描いてありました。

 マルヨンはキャノピーが左側へ横開きの為乗り降りは右側からでした。
何故左側開きになったんでしょうかね?

 同じロッキード製のサンサンは後ろ開きで左側から乗り降りしていました。

イメージ 1

 航空自衛隊では1979年より戦技競技会が開催されていました。

 それ以前は競点射撃大会と呼ばれていて、射撃の成績を争うかたちを空対空の空戦で争う方式に改めたようです。

 1979年は抽選で各飛行隊を識別する為に胴体に派手な色の帯を巻きました。
この頃は未だ飛行教導隊は存在せず、各飛行隊の総当りだったようです。

 翌1980年は各飛行隊が工夫を凝らし、如何にして対戦相手から視認されないかの迷彩塗装の研究が行われ、我々マニアの眼を楽しませてくれました。

 手元には1980年の絵しかないのでこちらから始めます。

 マルヨン部門が三沢基地、エフヨン部門は千歳基地でした。

 この年はマルヨンは201,206が解散していてマルヨンの参加は202,203,204,205,207の5飛行隊でした。

 202飛行隊は予備機を含めて参加3機がすべて同じ塗装でした。
丁寧な塗り方の旧海軍機を彷彿させる濃い青みがかった濃緑色はマニアに好評でした。

↑このページのトップヘ