飛行老人の飛行機話

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2009年06月

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 今日は3SQです。

 3SQは1956年10月1日付でハチロクの部隊として新編されました。その後千歳、松島、八戸、三沢へ移動しました。
 
 八戸時代から三沢へ8SQが移動して来るまでは81航空隊に所属していました。
ただし81航空隊=第3飛行隊でしたけど。

 1978年3月31日に第3航空団第8飛行隊が小牧から移動してきて第3航空団所属になりました。

 機首のインテークの赤い縁取りは当時としては派手な塗装でしたね。尾翼の2本の帯は最初、第2航空団所属の為だったと思われます。

 八戸時代に一度高校の同級生がいたので訪問した事が有りましたが天気が悪く残念ながらノーフライトでした。

 画像は1970年代後半の三沢基地航空祭の時です。
この頃は三沢も人出が少なく、規制も緩くこんな画像が撮れました。

 3SQはこの前年の小松で行われた競点射撃大会で空自初?のシャークマウスをドロップタンクに描き込んでいました。

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 マルヨンはまだまだあるのですが取り込みが追い付きません。
とりあえず手持ちのハチロクを紹介します。

 1枚目は浜松でのハチロクブルーです。

 那覇航空祭の前の週に浜松へ行ったらブルーは飛ばずいつもとは違った列線に並んでいました。

 よくみると旅装束の4本タンクでした。
ダメもとでゲートから広報に電話するとOKが出て撮影できました。
 4本タンクはこの後新田原で撮った事がありますが、チャンスは1年に3回浜松でのタンク取り付け後のテストフライトと那覇往復(新田原経由)だけでした。

 浜松の広報担当の方有難うございました。
 マルヨン202で忘れていましたが新田原の広報担当の方にもお礼申し上げます。

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 今日は天気がいまいちでしたが、ベンガルが上がりそうだという事で久しぶりに横田へ行って来ました。
 毎年8月に行われる公開には時々行っているのですが、昔横田ドライブインのあった16号線沿いの転がりには随分行ってませんでした。

 16号線も拡張され、基地内の昔は無かった目隠し植木もかなり伸びていました。
八高線の西側も畑が住宅団地になっていました。

 今日はお目当てのベンガルX4以外にもトラビスのKCー10、ワールドのB747も撮れてまあまあの成果でした。

 しかし行き、帰り共に高速道路の渋滞には参りました。なにせ車が止まってしまうのですからね。

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 今日は手持ちの画像から202飛行隊を。

 19xx年3月初旬、天気良し、勇んで新田原の眺鷲台に着いて中を見るとマルヨンがズラリ。
しかし一向に飛ぶ気配が無く時間ばかり過ぎてゆく。

 ゲート前の公衆電話から基地広報にTELすると、高校入試の為午前の飛行は無いとの事。
それでは見学させてくれないかと申し込んだら、すんなりOK。

 ということで普段は入れない赤線の中までも入れてくれました。
今は見学は団体様10名以上、2ヶ月前に申し込みとか。
 古き良き時代でしたね。

 2枚目は19xx年の戦競の事前訓練時のひとコマ。
マルヨンをエフワンもどきのフェイカー塗装にして、翼端のチップタンクを外してドロップタンクを両翼下にぶらさげています。
 翼端にサイドワインダーを付ければよりそれらしく見えたのではないでしょうか?

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 今日は207の那覇時代を、

 207は1973年11月10日百里から那覇への移動を完了し、83航空隊の隷下に入りました。

 当時の沖縄は遠いところでなかなか行くことはできず、嘉手納へ行ったついでに寄ってみるかといった感じでした。

 部隊マークも基本は変わらず梅が南十字星になったのと全体で207をアレンジしたようです。

 506号機は当時整備員だったBRONKOさんに提供してもらったものです。

 1970年代の秋の総演に出現した仮想敵機だそうです。
この迷彩は旧海軍機に似ていて、ベトナム迷彩よりも迫力があります。

 是非制式採用してほしかったですね。F-1もこの塗装の方が良かった気がします。
この機体は三菱へIRANで入る時にこのままの塗装で来たそうで名古屋で何人か撮ってると思いますがカラーでは初公開かも?

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