飛行老人の飛行機話

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早いもので新石垣空港へ行ってからもうすぐ2年になります。
前回行った時は時期的には梅雨明けだったにもかかわらず雨に降られてしまいました。
やはり南国には青い海と青い空がよく似合います。
今年は是非とも梅雨明けの晴天の時期に行ってみたいものですが、果たしてリベンジなるか、熱中症に気をつけたいですね。
前回は途中一時的に風の状況でランウエイ22になりました。
 
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板付で忘れていた画像があったので追加します。
今と違って当時は米軍管理下、国内線も2社、日航と全日空だけだったようです。
日航、Bー727ー100(JA8314)の離陸。
 
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全日空、Bー727ー100(N974PS)が着陸後リバース。
PSAからのリース機、PSAと言ってもご存知の方は少ないでしょうね。
この後このタイプの飛行機に縁があるとは露知らず。
 
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ターミナルビルはこの年の4月に開業したと検索したら出て来ました。
それにしても今と比べると並んでいる機体が少ないですね。
 
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昨日の百里は戦競訓練も佳境に入ったようでファーストの離陸では離陸でガバッとまではいかないものの

かなりの捻りを見せてくれました。

味をしめて着陸も期待して着陸ポイントへ行ったのですが、ラジオを聴き逃してまんまとウエストへ

逃げられてしまいました。着陸も良い捻りだったのですがねー。

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今日は日付けがはっきりしませんが1972年3月に百里へ行った時の物です。

当時航空学生だった友人と先輩を訪ねるという名目で訪問しました。

待機室の手前でたばこをふかしているのがその先輩O1尉です。そのO1尉はその後民間に転出、J社でB747の機長をしていたそうですが音信不通になりました。

当時の207飛行隊は那覇への移動が決まっていて、塩害防止にグレーのノーマークの機体が増えつつありました。

おまけに飛行隊の入り口で撮ってもらった若かりし頃の私です。40年後の今の姿は想像出来ませんね。(笑)

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1969年3月20日の百里その2です。

当時のマルヨンは予算の関係とインターセプターは敵の侵入してくる高速爆撃機を迎撃するためにはミサイルを使用するというコンセプトがあったそうです。

百里の機体も多くはガン無しだったようです。

サイドワインダーの実射は予算の関係から年中出来るわけはなく各飛行隊年に数発の割り当てだったように聞いています。

ミサイル以外に非誘導の2.75インチロケット弾は費用も安くこちらはかなり実射していたようです。

ロケット弾は2.75インチを19発装備したLAU-3Aポッド(通称ドラム缶)を主翼下に2個ぶら下げてF-104DJの曳く高速デルマーターゲットを標的に射撃したそうです。

これは目標が大きな爆撃機なので下手な鉄砲も数打てば当たるの方式だそうで38発も打てば1発位は当たるという事でしょう。
実際はどうなのかパイロットに聞いてみたかったですね。

センターパイロンにはガンカメラ(ロケットカメラ?)がついていますが、世界の傑作機シリーズにも解説が無いので詳しい事は判りません。

マルヨンは離陸後脚上げ速度限界に達するのが速いせいか脚上げのタイミングが早いのも撮影者唐見ると良かったですね。

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