カテゴリ: 昔の写真、羽田
L1011その9
JA8511、1981年10月3日、大阪の32Lを離陸、リフトオフ直前。

JA8512、1984年2月16日、大阪を32Lを離陸、戦闘機と違ってギアはアップされていない、昇降計がやっとポジティブクライムになったぐらいか。この辺でギアが上がりかかってくれると良い絵になるんだが。


JA8514、1975年8月2日、羽田のランウエイ22にアプローチ。導入当初はレジの下二桁が青字で機首に書いてあったが何時の間にかノーズギアドアに黒字で変更になった。新品でピッカピカ。

JA8515、1975年9月、那覇空港。今のターミナルビルができる前海洋博に備えて那覇港側にターミナルビルが移設された。この便は海洋博に連れてきた祖父が乗って羽田へ帰るところ。私は居残って翌日嘉手納へ。

JA8521、1984年2月16日、大阪の32Lにアプローチ、千里川堤防。

JA8522、L1011のA社最終号機、1982年12月14日、千歳のランウエイ36Rにアプローチ。冬の北海道は太陽が低く南西方向に沈むので光線状態は良くない、雪の反射も昼頃に比べると弱くなっている。


JA8512、1984年2月16日、大阪を32Lを離陸、戦闘機と違ってギアはアップされていない、昇降計がやっとポジティブクライムになったぐらいか。この辺でギアが上がりかかってくれると良い絵になるんだが。


JA8514、1975年8月2日、羽田のランウエイ22にアプローチ。導入当初はレジの下二桁が青字で機首に書いてあったが何時の間にかノーズギアドアに黒字で変更になった。新品でピッカピカ。

JA8515、1975年9月、那覇空港。今のターミナルビルができる前海洋博に備えて那覇港側にターミナルビルが移設された。この便は海洋博に連れてきた祖父が乗って羽田へ帰るところ。私は居残って翌日嘉手納へ。

JA8521、1984年2月16日、大阪の32Lにアプローチ、千里川堤防。

JA8522、L1011のA社最終号機、1982年12月14日、千歳のランウエイ36Rにアプローチ。冬の北海道は太陽が低く南西方向に沈むので光線状態は良くない、雪の反射も昼頃に比べると弱くなっている。

L1011その8
L1011その7
L1011その6
国内へ戻ってA社の後期塗装。
JA8514、1982年12月11日、今は取り壊されて更地になった大阪国際空港のハンガーに頭を突っ込んでいる。
この機体が後期塗装の初号機だった。B767の導入に合わせて塗装変更になった。

JA8515,1984年2月16日、大阪ランウエイ32Lを離陸。

JA8515、翌々日雪の解けかかった大阪国際空港の51番スポット、背景は宝塚の山。

JA8520、雪の羽田空港、14番スポットからランウエイ04に向けてプッシュバック。タグ車はL1011に合わせて導入された米国、ペイムーバー社の”平タグ”。胴体の下でも作業できるように車高が低く抑えられている。格納庫内の作業では胴体下での作業が行われたそうだが、屋外では潜ってのトーイングは行われなかった様だ。
トーバーの付け替えをしなくても済むように前後に運転席がついているが前方は運転席が上に上がって視界が良かったが、後方は上に上がらず、左側の視界が確保出来なくて運転手は苦労したそうだ。

JA8518,1990年3月26日、伊丹カーブを旋回する。千歳か那覇行きでキャセイ並みの低い上がりだった。

JA8514、1982年12月11日、今は取り壊されて更地になった大阪国際空港のハンガーに頭を突っ込んでいる。
この機体が後期塗装の初号機だった。B767の導入に合わせて塗装変更になった。

JA8515,1984年2月16日、大阪ランウエイ32Lを離陸。

JA8515、翌々日雪の解けかかった大阪国際空港の51番スポット、背景は宝塚の山。

JA8520、雪の羽田空港、14番スポットからランウエイ04に向けてプッシュバック。タグ車はL1011に合わせて導入された米国、ペイムーバー社の”平タグ”。胴体の下でも作業できるように車高が低く抑えられている。格納庫内の作業では胴体下での作業が行われたそうだが、屋外では潜ってのトーイングは行われなかった様だ。
トーバーの付け替えをしなくても済むように前後に運転席がついているが前方は運転席が上に上がって視界が良かったが、後方は上に上がらず、左側の視界が確保出来なくて運転手は苦労したそうだ。

JA8518,1990年3月26日、伊丹カーブを旋回する。千歳か那覇行きでキャセイ並みの低い上がりだった。
