飛行老人の飛行機話

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2020年04月

1992年11月29日は新田原の航空祭だった。
この年は直前に戦競が行われてその時の迷彩塗装が残っていて、航空祭ではしっかり飛んでマニアを喜ばせてくれた。
しかも仮想敵機役のF-1に似た迷彩を施した機体までね。

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1975年の10年後、1985年2月の伊丹空港。
全日空はB767の導入に伴い今も続いているトリトンブルーの塗装に変更、B727も数を減らしていたがローカル線で飛んでいた。

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印度航空はB747に機種変更していた。それにしてもこの塗装は客室窓枠すべてに縁取りの塗装をしたものだ。

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今は伊丹空港と言われているが1975年当時は関西空港が開港しておらず、大阪国際空港と呼ばれていた。
騒音問題で新規乗り入れはほとんど無くてマニア的にはあまり面白みが無かったが、手軽に撮影出来た事もあり会社の行き帰りや休みの日には良く通っていた。勿論自衛隊や米軍基地にも良く行っていたが。
この頃は未だ第一世代や第二世代のジェット旅客機が主役だったが流石にカラベルやコメットは日本では見かける事は出来なかった。1970年頃まではタイや中華のカラベルが伊丹にも飛来していたらしいがその頃は未だ関東在住だった。
トンネルの西側、今は公園になって撮影環境は随分良くなったが当時は脚立が必需品、旧国際線ターミナルには大韓航空のDCー8-63、中国民航のB-707、JALのB727-100が見える。

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32Lを離陸するモヒカンルックのB727-200、背景に見える全日空マークの格納庫やS-1ビルは解体されてしまって面影は無い。

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印度航空のB707,他の会社はほとんどPW社のターボファンエンジンになってしまったが、此処はRRのターボジェットにハッシュキットを着けて運用していた。

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印度航空といえば、32Lを離陸して左旋回が規定されていたのに右旋回をして行ったのを見た事がある。この時はラジオを聴いていなかったが管制官は焦った事だろうね。
日本のパイロットがやったら即飛行停止を喰らっただろうが、この時のパイロットにはお咎めは無かったのかな。
当時の関係者に聞いてみたいものだ。




昨日の続き。

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前にも木曽川のS-62Aを紹介したが今度は2回目の遭遇、1979年だった。
この日は5月の月末で岐阜はフライトが無かったようでこの後は小牧へ転進した。
救難ヘリはやはり飛行場で撮るよりも場外で撮るほうが嬉しいものだ。

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