飛行老人の飛行機話

Yahooからの引越しに伴いタイトルを変更

2016年04月

 今日は安易に日付けネタ、オジロの424です。

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 年月は過ぎて1980年5月26日の嘉手納基地。
那覇基地が日本に全面返還された後、海軍と海兵隊は嘉手納基地に移転。レッド
デビルも嘉手納に移動訓練に来ていました。
 ロービジになる前なので部隊マークは小さく地味になってしまいました。
 なお4枚目以外は今は無くなってしまった西側タクシーウエイエンドの松ノ木の上から撮影。

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 某サイトに投稿しようと用意した画像、TIFからJPEGに変換してリサイズしても受け付けてくれないのでせっかく用意したのでこちらで紹介します。
 1974年9月21日、当時の那覇は未だ海軍と海兵隊が駐留していました。
今は撤去されてしまったターミナルビルの北側を通り抜けるとランウエイ18のエンドのフェンス沿いに滑走路西側の米軍専用ビーチに抜けられました。
 ランウエイ18がインユースの時、午後は絶好の撮影ポイントでしたが、36でも西側エプロンを使っていた海兵隊は目の前を転がってくれたので良かったのですが当時は沖縄は遠くて年に1~2回行くのがせいぜいでものに出来たチャンスは少なかったですね。

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 今来日公演中のIRON MEIDEN、5年前の3月11日に成田空港で待っていたら東日本大震災で成田に降りられず中部にダイバート、幻に終わってしまった。
 今回は前のB757から機材変更、B747-400になって羽田空港への飛来になった。
 天気予報は良くなかったが出発予定の22日の天気も良く無さそうなので18日の羽田空港へ出かけました。到着予定は午後5時過ぎとの事だったので何とか撮れそうかと思って待っていたもののFR24情報によるとズルズルと遅れて午後6時を廻ってしまった。
 曇り空で日没時間が迫ってきてかなり暗くなってきたのでASA感度を1600にしてもシャッタースピードは何十分の一の世界、10枚ほど撮っても2枚ほどしか見られる画像は無かった。
 今回は何処を転がるかギャンブルだったがさる人のアドバイスをもらい、2タミで
待機、結果正解でした。
 画像がザラザラなので証拠写真に終わってしまったが撮れないよりはましかな。
聞くところによると国際線デッキに待機していたマニアは待ちぼうけを食わされたとか、残念でした。

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 今も継続している熊本地震、災害派遣命令が出され統裁官に陸自西部方面隊
総監が任命されたとの報道はなされたものの報道では災害現場での救助作業は
テレビ画面等で報道されているもののそれ以外はあまり見かけません。家や土砂に埋まった人々の救助を優先させる事は言うまでも無いが、同時に非難している人々に対する支援も重要でしょう。
 今までとは違って収束が見えない地震に自宅へ帰れない、又避難所も安全とは
いえず、心配して車中泊をしていて亡くなった人も出てきています。自衛隊の有するテントを貸し出すわけにはいかないのでしょうか?
 避難所には食料品その他必要物資がなかなか届かないという報道も出てきています。道路が寸断されているのならヘリコプターという強力な助っ人もいるはずですが見える限りでは有効活用されていないようです。今朝の当地の新聞にはオスプレイが政治的配慮で飛ばしているとの記事が出ていましたがまさにその通りでしょうね。
自衛隊のヘリが足りないならば応援要請が必要でしょうが今の段階では不必要でしょう、陸自が導入するオスプレイの地震を利用した不謹慎なデモンストレーションを考えた政治家はいったい誰でしょうか。
 熊本空港自体は被災していなくて運行可能のので援助物資の集配拠点として
利用可能なので全国各地から空自の輸送機を総動員して被災者への援助を支援する体制は出来ないものでしょうか。
 政治家の思惑を跳ね返して国民目線の指揮官を期待したいですが無理でしょうか。

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