飛行老人の飛行機話

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2014年04月

今日もボツから、TCー90、1988年6月5日の徳島基地公開から。
 
当日は幸いにも編隊祝賀飛行のエアボーンスタンバイ機に搭乗の開会を得ることが出来ました。
 
しかしスタンバイ機では撮影のアングルが限られてしまい、更にはTCー90の窓は色付きガラスという悪条件が
 
重なっていまい撮影条件としては厳しいものでした。
 
搭乗機は後で調べると計器盤のラジオコールから6801と判明しました。
 
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今日はTー34のボツになった画像。
 
Tー34は陸海空3軍で使用された数少ない機種ですね。他に思い当たるのはKVー107とUHー60位です。
 
まずは陸自、航空学校岩沼分校では昔の海軍の練習機、赤トンボに似た塗装(あくまでも想像、実際に見た事
 
はありません、戦後生まれの為)で入間へも何回か来ているのを見かけました。
 
右側はTー34の座席を増やした富士重工改造のLMー1。1968年頃、入間。
 
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岩沼分校廃止後、東北方面隊に移管されたTー34、1975年7月28日、霞の目。
 
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海自のTー34、1974年5月26日、徳島基地公開に小月基地201空より3機飛来して編隊飛行の為に
 
タキシングする前から11、12、13。
 
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同上、13。
 
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列線に並ぶ入間救難隊のTー34、1968年頃。
 
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1970年頃入間基地外来機列線に並ぶ11飛教団のTー34と陸自岩沼分校のLMー1。
 
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雫石事故以降(多分)視認性を良くする為に蛍光塗料面積が大幅に増えた11飛教団のTー34、1977年7月
 
31日の松島基地公開。
 
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昨日で終わった某BBSⅡの自衛隊のプロペラ練習機シリーズに参加しました。
 
多機種にわたった為、スキャンして取り込んでもボツになった画像が多かったです。
 
このまましまい込むのももったいないのでこちらで紹介します。
 
6701、1969年月22日入間
 
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6718、1969年3月20日百里
 
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6714、1979年12月2日新田原公開、1974年以降順次赤白塗装に変更
 
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6724、1972年4月初旬宇都宮、この頃は宇都宮に202飛行隊が常駐。
速度の遅いBー65に後退角の垂直尾翼がついていたが、効果のほどは?カッコ良いからかな。
 
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03-3091(6720)1980年11月三沢
海自が機種更新の為空自に管理移管、連絡機として総隊、南混団で使用。
 
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1977年8月2日のネガにはマルヨンとRFー4Eが写っていました。
 
当時の迷彩前のUSAFの正規塗装、ガルグレイと下面ホワイトは今に比べると綺麗でしたね。
 
その後迷彩塗装が施されましたが、鮮やか過ぎて日本の風景にはなじまないと私的には思っています。
 
その後EJから改造されたタイプは実際の風景に合わせて改正されたと思いましたが、RFー4Eの方は相変わらず
 
昔の迷彩塗装のままです。こんなところにも改正手続きの煩雑さが現れているような気がしますが、実際のところは
 
どうなんでしょうか、聞いてみたいところです。
 
前置きが長くなりましたが、当時のRFー4Eは標準装備の3本タンクではなく2本タンクでも飛んでいたようです。
 
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当時の百里基地周辺は松林でしたが、今では松クイ虫で枯れ死してすっかり様変わり、杉林になってしまいました。

1977年8月2日、百里基地の03エンドアーミングエリア。
 
今は入れなくなってしまったアラートハンガー南側ですが、当時のアラートハンガーは滑走路の反対側にあり、
 
現在のアラートハンガーが出来てからはしばらく茨城県警のヘリ格納庫として使われていました。
 
その後空港ターミナルが出来てからはそちらへ移転、取り壊されました。
 
話が脱線しましたが、この場所はランウエイ21の時はドラッグを曳いては行ってくるのが撮れる良いロケーション
 
でした。
 
最近の飛行機はブレーキの性能も良くなり、ドラッグシュートを装備していないのが寂しいですね。
 
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