飛行老人の飛行機話

Yahooからの引越しに伴いタイトルを変更

2012年10月

イメージ 1

イメージ 2

1980年の三沢での戦競撮影の際には当時は新鋭機のFー1は未だ戦競には参加せず、通常訓練をして

いました。

当時は航空団の共通デザインが流行っていたのか三沢の3空団では青森県をデフォルメした色違いで赤が

3スコ、黄色が8スコでしたね。

北空司令部も便乗して同じデザインの青でしたね。

Fー1は後継機に恵まれ早々と隠居してしまったのに先に採用されたファントムが後継機に恵まれず頑張

っている姿はマニアにとっては嬉しいですが痛々しい感じもします。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

1980年当時はしがないサラリーマン、戦競初日の月曜日は休めず、火曜水曜木曜に休みが取れたので

火曜日の三沢が終わってから2匹目のドジョウを狙って夜のフェリーで苫小牧へ。

ところが月、火で競技はほとんど終了、朝一にやり直しの303スコがあったのみで301はさっさと

お帰りしてしまった。

303は曇天用の濃いグレーの機体、インテークベーンには競技前の訓練中に対抗したマルヨンの撃墜

マークらしき白いシルエットが見える。

晴天用のカラス迷彩は事前に小松で撮ることができた。

そのうちの1機には大きなシャークが描いてあったが戦競本番では消されてしまったと聞いているので

これが撮れたのはかなり少ない人数と思われる。

木曜日は戦競帰りの機体を待って某基地で網を張って待ったのだが、撮れたのは那覇へ帰る207だけ。

肝心の202は夕方諦めて駅へ着いたら上空でブレークする姿が見えてガックリした記憶があります。

イメージ 1

探し物をしていたらやっと昔小牧で撮ったドローンマルヨンが出てきました。

1989年月20日、年の瀬も押し詰まった小牧で三菱からテストフライトに出てきました。

私がQFー104J(後にUFー104Jに改称)を見たのはこれが最初で最後になりました。

この後改造された機体は小牧ではテストフライトを行わず、硫黄島へ船積みで送られたと聞いています。

その後全機標的として海の藻屑に消えたということです。

イメージ 1

イメージ 2

ここのところ1週間連続して飛行場通いしたため疲れがなかなか抜けません。

画像の整理もなかなかやる気になりません。

そんな時には昔の画像から。

1980年11月に開かれた戦競はマルヨンとファントムが5個飛行隊ずつでした。

マルヨンは三沢、ファントムは千歳に分かれての開催、マニア泣かせでした。

私はマルヨンを選択しましたが、ファントムも魅力的な塗装がありました。

なかでもマルヨンの202飛行隊は昔の海軍機に似た塗装で丁寧な仕上げ、整備員の苦労と気概が偲ばれ

ます。

列線は手前から202,203,204,205,207の順です。

画像は202飛行隊が競技を終えてスポットインしたところです。

なお審判が乗ったDJは飛行隊毎に色は若干異なるもののチップタンクと胴体に赤系統の塗装をしていま

した。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

今日は疲れがたまっていたので出かける予定はなかったのですが、青いのが出てるよとの天の声が聞こえ

急遽出かけてしまいました。

しかし現地へついてみるといつもと状況が変わってフライトの順番が違っていました。

肝心の青いやつは遅い方だったので余裕で間に合うかと思っていたのですがこちらのフライトは既に

フライト中、聞いてみると青いやつは飛んでいないとか。ほっとするやらガッカリするやら。

そうするうちに梅がハイレート、こちらの青いのが上がってゆきました。

さて昼前のセカンドでは変速フライト。

キツツキ、オジロが上がり、お待ちかねの青いのが上がってゆきました。昨日の朝の上がりには及びませ

んが片眼が開いたかな。

続いて梅の青いのが1機上がりました、かなり変則なフライトです。

お帰りを待っているとオジロと梅が編隊で進入、なるほどフォトミッションだったようです。

サードを期待して中を見に行くと機体を片付け中、航空祭の疲れで早仕舞いだったようです。

合間には実弾付きのイーグルも降りてきました。

↑このページのトップヘ