飛行老人の飛行機話

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2009年06月

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 今日は新田原の航空祭でのひとコマ。

 未だマルヨンが全盛だった1980年代の新田原の航空祭では朝の入門が早くから出来、未だ日が昇ってない時間に入った事がありました。
 確かまだ7時前だったと思います。

 駐車場から展示会場へ歩いていると、太陽が昇ってきてフライトラインのマルヨンがシルエットになり露出を変えて何枚かシャッターを切りました。

 その後フライトする機体は滑走路の両側アーミングエリアで待機するようになってしまいました。

 最近新田原の航空祭には行ってませんが開門は何時になってるのでしょうか?

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 今日は実空その2

 実空でのマルヨンは私が行った、1970年後半から1980年前半頃には装備品のテストはほとんど終わっていて、FST-2改のテストフライトのチェイス機として飛んでいるのが多かったですね。

 T-2もスリムな機体でしたが並んで見るとマルヨンのスリムさがよくわかります。
この撮影場所は当時は崖が崩れていて滑走路が良く見渡せましたが、東側、27の着陸方向は木が茂っていて撮りにくく、木に登ったりして何とか隙間を見つけて撮る事が出来ました。
 今は木が茂って撮れないでしょうね。

 おまけの516は普通のマルヨンです。
チェイス用にタンクを改造してカメラを付けた機体もあったようですが私は撮れませんでした。

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 206,207はひとまず終わりにして今日は実空、実験航空隊(APG)その後改名された航空実験団(APW)です。

 実空のマルヨンは初めての超音速機という事で従来の紺色のマークに使用された塗料では剥がれてしまう恐れがあるという事で黄色が使用されたと聞いています。
 その後紺色に変更されました。

 527は1971年11月、名古屋で行われた航空ショーに行った際に足を延ばした岐阜で撮影したもので、黄色のマークは最初で最後のチャンスでした。

 515はAPWに変更後で、当時通称”豚小屋”からの撮影です。
冬のある日雪雲が流れてきて周りが暗くなった時に機体に光が当たり夜間撮影の感じになりました。

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 今日も百里時代の207から。

 513の着陸は今は迂回路ができて閉鎖になった北門から正門へ抜ける道路上から135mmで撮ったものです。
 主翼下にはロケットポッド用のパイロンが付いていますが、ポッドがついて無い状態はほとんど見たことがありません。もしかしたら落としてきたかも?

 511は21で降りてからのくのいち前の転がりです。
LAU-3Aロケットポッドを付けています。
21エンドにはピン抜きをしている206のマルヨンが見えます。

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 今日は20のマルヨンを紹介します。

 207飛行隊は7のマークが赤でした。
1966年3月31日に編成され、1973年11月10日まで百里にいて、那覇へ移動してしまったので206に比べて撮影の機会は少なかったですね。(百里時代)

 那覇へ移動後はマルヨン最後の部隊となったのでこちらの方はチャンスが多かったですが。

 マルヨンは空対空の武器として機関砲、サイドワインダー以外にロケット弾も使用していました。
これには2種類あってLAU-3Aというロケット弾ポッドに2.75インチロケット弾を19発装備できたものを2個、RL-7ロケット弾ポッドに70mmロケット弾を7発装備できる超音速でも発射可能ななものがありました。

 我々マニアはその外見から前者を”ドラム缶”後者を鉛筆と呼んでいました。

上が通称”ドラム缶”下が鉛筆です。

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